観福寺境内に所在する二基の大型板碑は、鎌倉時代中期の代表的な板碑として、昭和三年に「南河原石塔婆」という名称で国の史跡に指定された。 これらの板碑は、石材の劣化がすすみ損傷がひどく、非常に危険な状態であったが、平成四年度に国・県の補助事業として板碑の保存修復がはかられ、平成七年三月から新しい覆屋の中で保存・管理されることになった。 板碑は江戸時代後期に松平定信が編集した『集古十種』や江戸幕府が編纂した『新編武蔵風土記稿』などにも紹介され、古くから人々に知られていた。これらの板碑については、当地出身の武蔵武士で、源平争乱の際に摂津国生田の森(兵庫県神戸市中央区)の合戦で討死した河原太郎高直・同次郎忠家(『平家物語』では盛直)兄弟の供養碑であるとの伝承があるが、真偽は不詳である。 文応二年(1261年)銘の国指定板碑1には、蓮座の上に阿弥陀如来をあらわすキリークという種子(仏をあらわす梵字)が大きく深く薬研彫りされており、その下に来迎印を結ぶ阿弥陀如来が観音・勢至両菩薩を従えた阿弥陀三尊像が線刻されている。この三尊像は、当時、仏画の中にさかんに描かれた来迎図を模したものと考えられる。また下部の中央に「文応二年」という紀年銘と、その両側にはこの板碑の造立功徳にかかわった十二名ほどの人名が刻まれている。ただし剥離部分が多いため、「弥藤太并妻女」など数名の人名が判読できるにすぎない。 文永二年(1265年)銘の国指定板碑2には、上部に天蓋を配し、右手に錫杖、左手に宝珠をもった地蔵菩薩が岩座に座っている像と、その下部の左右に脇侍が線刻されている。下部の中央に「文永二年」という紀年銘があり、その左右に「願阿弥陀仏」「浄阿弥陀仏」などの阿弥陀仏号をもつものや、「藤原」「佐伯」などの姓を持つ二十数名の人名が刻まれているが、判読不明の部分も多い。 鎌倉時代中期の紀年銘をもつこれら二基の板碑は、いずれもめずらしい図像板碑であるとともに、大型で丁寧な造りの代表的な武蔵型板碑といえよう。